寒い日もありますが、今週はいよいよ卒業式を迎えます。在校生の椅子が並べられ、卒業式の練習が始まっています。

起立・礼の練習から始まりました

先週の金曜日の放課後には、教職員による会場準備が行われました。放課後児童クラブで残っている子供たちも手伝ってくれました。

トラスという土台を組み立てます
「卒業式」の看板設置
赤絨毯設置
紅白花作り
白布

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卒業式を迎えるということは、9年間の義務教育が終わるということ。それぞれの夢や目標に向けて、自分の選んだ進路に進んでいきます。中学3年生の国語の教科書に「誰かの代わりに」という文章が載っています。自立することの本当の意味について考えることができる文章ですので抜粋して紹介したいと思います。

誰かの代わりに   鷲田 清一

「自分にしかないものは何だろう。」「自分には、他の人にないどんな能力や才能があるだろう。」こんなふうに考えたことはありませんか。

 「自分とは何か」という問いは、哲学者や思想家などによって、昔から繰り返されてきました。しかし、今は、この「自分とは何か」を、哲学者や思想家だけでなく、十代の若者から中高年まで、世代を超えて、誰もが問わずにいられない時代であると思います。

 その理由として、今の社会が、これまでの時代に比べ、個人により大きな自由が保障される社会であるからだということができるでしょう。自分の意志で自分の人生を選び取っていくことを理想とする社会。何にでもなれる可能性のある社会。昔の封建制の下でのように、個人の自由が厳しく制限されていた社会よりも、ずっと居心地のよい社会だといえそうです。しかし、ここには自由があるからこそのしんどさがついて回ります

 何にでもなれる社会。これを裏返していえば、その人の存在価値は、その人が人生において何を成し遂げたか、どんな価値を生み出したかで測られるようになる、ということでもあります。「何をしてきたか」「何ができるか」で人の価値を測る社会。そこでは、人は絶えず「あなたには何ができますか。」「あなたにしかできないことは何ですか。」と他から問われ、同時に、「私には、他の人にはないどんな能力や才能があるのだろう。」と自分自身にも問わなければならないことになります。「あなたの代わりはいくらでもいる。」「ここにいるのは、別にあなたでなくていい。」と言われることがないように、自分が代わりのきかない存在であることを、自分で証明しなければならないのです。こうした状況は、先ほどの「自分とは何か」という問いを、「こんな私でも、ここにいていいのだろうか。」という、なんとも切ない問いへと変えてしまうことがあります。

 そのような問いに直面したとき、私たちは、その苦しい思いから、今のこの私をこのまま認めてほしいという、いわば無条件の肯定を求めるようになります。何かができなくても、このままの自分を肯定してほしいと、痛いほど願うのです。自分の存在が誰からも必要とされていないこと、「おまえはいてもいなくても同じだ。」と言われることほどみじめなこと、怖いことはありません。だから、「できる・できない」の条件を一切付けないで自分の存在を認めてくれる人、「あなたはあなたのままでいい。」と言ってくれる人を求めるのは、自然の成り行きです。

 でも、これはちょっと危ういことでもあります。「あなたはあなたのままでいい。」と言ってくれる他者がいつも横にいてくれないと不安になるというように、自分の存在の意味や理由を、常に他人に与えてほしいと願う、そんな受け身の存在になってしまうからです。いつも他者に関心をもっていてほしい、その人が見ていてくれないと何もできない……そんな依存症に陥ってしまうことがあるからです。

 このように受け身な存在でいては、人生で見舞われるさまざまな苦労や困難、社会で直面するさまざまな問題は、何も解決することができないでしょう。私たちには、それらを引き受ける強さというものが必要なのです。

 ここでいう強さのことは、今の社会ではよく「自立」とよばれます。誤解してはならないのは、「自立」は「独立」のことではないということです。「独立」は、英語で「インディペンデンス」といいます。「依存」を意味する「ディペンデンス」に、否定を意味する「イン」が付いた語で、誰かに依存している状態ではない、ということです。

 でも、私たちは、誰も独りでは生きられません。食材を準備してくれる人、看病をしてくれる人、手紙を届けてくれる人、電車を運転したり修理したりしてくれる人。社会の中では、数え切れない人たちが、互いの暮らしと行動を支え合って生きています。お金があれば独りでも生きていけるじゃないかと言う人もいるかもしれませんが、お金があっても、それが使えるシステムがなければ、さらにそのシステムを支えてくれる人がいなければ、何の役にも立ちません。

 「自立」は、「依存」を否定する「インディペンデンス」(独立)ではなく、むしろ、「依存」に「相互に」という意味の「インター」を付けた、「インターディペンデンス」(支え合い)として捉える必要があります。いざ病気や事故や災害などによって独力では生きていけなくなったときに、他人との支え合いのネットワークをいつでも使える用意ができているということ。それが、「自立」の本当の意味なのです。困難を一人で抱え込まないでいられること、と言い換えることもできるでしょう。言うまでもありませんが、「支え合い」のネットワークであるからには、自分もまた時と事情に応じて、というか気持ちのうえではいつも、支える側に回る用意がないといけません。つまり、「誰かの代わりに」という意識です。

 これがおそらくは、「責任を負う」ということの本来の意味でしょう。「責任」は、英語で「リスポンシビリティ」といいます。「応える」という意味の「リスポンド」と、「能力」という意味の「アビリティ」から成る語で、「助けて」という他人の訴えや呼びかけに、きちんと応える用意があるという意味です。日本語で「責任」というと、課せられるもの、押しつけられるものという受け身のイメージがつきまといますが、「責任」というのは、最後まで独りで負わねばならないものではありませんし、何か失敗したときにばかり問われるものでもありません。「責任」とはむしろ、訴えや呼びかけに応じ合うという、協同の感覚であるはずのものなのです。「君ができなかったら、誰かが代わりにやってくれるよ。」と言ってもらえるという安心感が底にあるような、社会の基本となるべき感覚です。

 「自分にしかないものは何だろう」という問いかけから始まるこの文章は、抽象的な表現が多く難しく感じるかもしれません。義務教育の中でも最後の3年間である後期課程は、特に自立に向けて活動することが多くなります。それが「支えられる側」から「支える側」に回る準備なのかもしれません。様々な困難や予測できない災害など、立ち向かわなければならない出来事に直面した時、支え合いのネットワークを構築できる一員として資質能力を備えて、社会へ旅立ってほしいと思います。